「天神さま」と「天神さん人形」

通りゃんせ 通りゃんせ

 ここはどこの細道じゃ

 天神さまの細道じゃ

 ちょっと通してくだしゃんせ

 ご用の無いもの通しゃせぬ

 この子の七つのお祝に

 お札を納めに参ります、、、


・・・天神さまについて・・・

 今日全国に天満宮、天神社はおよそ一万二千社を数える。ご祭神は菅原道真公、入試合格に御利益のある神様としてシーズンになると多くの受験生や親たちのお詣りで賑わっている。

 真公は今から約千百年ほど前の人で、元々学者の家に生まれ、お父さんやお祖父さんと同じく学者として最高位の文章博士となり、当時の先進国であった唐の諸制度や文化を導入するのに大きく貢献した。朝廷から破格の信頼を受けてついには右大臣といういわば政治の頂点を極める。ところがここで、天皇の外戚として世襲的に朝廷に君臨していた藤原氏の恨みを買い、あらぬ罪を着せられて突如九州太宰府に流され、病と貧窮に苦しみながらそのまま亡くなってしまう。
 その後数十年にわたって発生した関係者の急死や、干ばつ、疫病の流行、果ては御所への落雷など全て怨みを込めた道真公の霊の祟りだと信じられ、これを慰めるために天の神として祀ったのが天満宮の始まりである。初めは恐ろしい怨霊神であり、やがて農業に関係の深い天候を司る「天の神」として農耕の神様となったわけだ。

 れから百年以上も経つと、学者としての道真公の業績がクローズアップされ、「天神さん」は詩や文章の神、更には芸能の神となっていく。江戸時代に入ると学問が奨励され、また全国に寺子屋が普及し農民や町民たちの子弟にも読み書き算盤の教育が拡がっていった。全国各地に天満宮、天神社が建てられ、毎月二十五日の道真公の命日には天神さんにお詣りして上達を願った。因みに当時の日本の識字率は欧米をしのぎ世界一であったといわれる。


・・・天神さん人形について・・・

 土玩具、郷土人形は紛れもなく近世後期に花開いた農民芸術の所産である。我が国でいえば全人口の八割が農民であった江戸後期に、その日常の生活の中からごく自然に生まれてきたものといって過言ではない。
 日本に限らず世界中にこの種の玩具、人形は数多く見られるが、中でも十九世紀、革命前の中国やロシアに於いては、日本と並んで三大郷土玩具王国といわれたほど、その種の豊富さと手工芸としての質の高さを誇ったのである。これは両国共に他民族国家であり、従って民族ごとに異なった多くの神々を持つ集団国家であったことによると思われる。

 が国でも民族こそ単一の国家でありながら、天神地祇、八百万の神々と言われるように山川草木、森羅万象、いわば自然のすべてが神であったともいえる独特の神道世界に、仏教をも習合してやはり多くの神々を持っていた。ましてや江戸時代二百六十余年にわたって、内外を問わず戦争のない政治的に安定した時代を享受し、四季折々にうつろう美しい自然の中で、じっくりと庶民文化が熟成されていったのである。その中から神々に祈る心の結晶として世界一ともいわれる多くの玩具、人形が産み出されていったといえる。「天神さん人形」も無論その一つなのである。

 は青森から南は鹿児島まで、これほど迄に広範に作られ、また祈られてきた神様は他にはない。江戸後期から、「天神さん人形」は農閑期である冬期の副業として家族ぐるみで製作されてきた。四季折々に移ろう自然の中で、神仏の加護を祈りながら、一所懸命にいきた民衆の心を下支えにつくられてきた農民芸術の所産である。江戸の中期頃から京都の伏見稲荷の参道で売られていた土人形が、各地に持ち帰られ、これを元にそれぞれ郷土色豊かな人形が創り出されていった。暮らしを支える農耕の神であり、子供達の教育の神でもあった「天神さん」の人形はこうして全国津々浦々で作られ飾られるようになった。旧暦三月三日の雛の節句に、男子のために飾られたところが多いようだ。長い厳しい冬の後、一斉に花が咲いていよいよこれから田植えが始まる、その壮行会のような行事でもあった。

 下太平の時代背景もあり、郷土色あふれる人形はさまざまなスタイルで作られ、明治・大正期にその全盛を窮めた。明治時代までは農業人口が、全人口の八割を占めるという文字通りの農業国であったにもかかわらず現在では二割にも充たず、農村の過疎化が進み、食糧の大半は外国からの輸入に頼っているという。かつては農事の暦に合わせて営まれてきた多くの行事が今ではすっかり忘れ去られてしまった。雛の節句に天神さんを飾る風習もほとんどなくなった。つい四十年ほど前、昭和三十年代までは、まだまだこの風習は生きていた。
 
 かしながら戦後の経済成長とひきかえに、人形に願いを込めて飾る風俗習慣が日本人の生活の中から急速に失われていった。その為に作り手も先祖伝来の人形作りが業として成立し難くなり、後継者を得られず廃絶を余儀なくされた人形も数多い。たとえ復活されても、観光みやげとして綺麗に作られてはいるが、懐かしくも土臭い生活の匂いをどこにも見出せなくなってしまったものもある。

 コレクションは著者が昭和三十年頃から、全国の人形店や古道具店、骨董市を巡って蒐集したもので、その数およそ八百体である。書籍「天神さん人形」はその中から厳選した全国の多種多様な天神人形を百種二百余体をカラー写真で掲載し、その鑑賞の手引きと人形の生い立ち、製作者の紹介などを豊富に盛り込んだ画期的な労作、集大成である。

「・・・まだまだ大丈夫、一つひとつの人形から微かながらも
確かな鼓動が今も聞こえてくるはずである。」
<木村泰夫著「天神さん人形」(日貿出版社刊)より>


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